Search Posts

乳山投毒事件を検証|デキサメタゾンとホルモン薬理まとめ

記事内の印:確認済み 公式発表・添付文書・論文などで裏が取れた内容
参考 一般的な薬理の説明。今回の事件で実際に起きたかは未確認

1. はじめに

掲示板で、中国の職場で起きた「とんでもない事件」の話を見かけました。
不満を持った職員が、母豚の発情用ホルモンを職場の給水タンクに入れ続け、体調不良や、閉経後の月経再来、妊娠が相次いだ、という内容です。

正直、私も最初は「そんなことがあるのか」と驚いて、成分や、なぜ人にも効くのかが気になって調べ始めました。
ところが調べていくと、これは最近の事件ではなく、数年前の話がネット上で盛られながら再利用されているものでした。
この記事では、噂と確認できたことの差、そして調べる過程で勉強した薬の知識を、自分用のメモとしてまとめておきます。

2. 事件の整理:噂と、確認できたこと

該当するのは、山東省乳山市の統計局で起きた件です。事件が広まったのは2020年10月ですが、警察の捜査は2019年から始まっていました。
なお、加害者の実名は書かず、「職員の男性」とします。

ネットで広まった噂 確認できたこと
  • 2017年8月から約2年半、母豚の発情用ホルモンを注射器で水に混入
  • 「三合激素」(テストステロン系・黄体ホルモン・エストロゲン)が検査で基準値超え
  • 50代の閉経後の女性に月経が戻った
  • 女性職員の妊娠が相次ぎ、赤ちゃんが5kg超だった
確認済み

  • 2019年7月に警察が通報を受けて立件し、職員の男性が職場の飲用水に医用注射液を入れたと確認した
  • 案件は検察に送られた(2020年10月26日、乳山市政府の公式発表)
  • 公式発表は、ネットの記述は「実際と大きく食い違い、誇張や捏造がある」と述べた
  • 警察関係者は、投入物はホルモン類だが、母豚用かどうかは分からないと話した
  • 男性の父親は、本人が投薬を認めており、判決待ちだと話した(2020年11月、新京報)

確認できなかったこと

  • 投入された物質の正式な成分、被害者の人数や症状の詳細、判決の内容
  • 一部の転載記事には「デキサメタゾン」「6785本」「16人が被害」「懲役10年」といった具体的な数字が出ていますが、公式発表や判決文では確認できませんでした
  • 噂の開始時期も、2017年8月、2016年11月など、出どころによって食い違っています

つまり、噂も「公式の調査結果はこうだった」という説明も、どちらも裏付けがない状態です。確実なのは「医用注射液を水に入れた」というところまでです。

3. 科学メモ①:豚の発情誘起・同期化に使われる薬

噂の中の「母豚の発情用ホルモン」が気になったので、養豚で実際に使われる薬を整理しました。
作用の仕方で4つに分けられます。

分類 代表例 作用と主な用途
ゴナドトロピン系 確認済み eCG+hCG合剤(PG600など) 卵胞の発育と発情を促す。未経産の若い雌豚や、離乳後になかなか発情しない雌豚に使う。hCGはLH(黄体形成ホルモン)に似た作用を持つ。投与の数日後に発情が来る
GnRHアナログ系 確認済み buserelin、triptorelin、gonadorelin、lecirelin、peforelin 脳下垂体を刺激してLHの急上昇を起こし、排卵のタイミングを揃える。定時人工授精に使う。豚ではtriptorelinの膣内投与も研究されている
プロスタグランジンF2α系 確認済み dinoprost、cloprostenol 黄体(プロゲステロンを出す組織)を退縮させる。分娩誘発や、妊娠・偽妊娠中の雌豚を発情に戻す目的で使う
ステロイド系 確認済み altrenogest(経口の黄体ホルモン様薬)、estradiol benzoate / dipropionate altrenogestは飼料に混ぜて与え、発情を抑えておいて、やめたときに揃って発情させる。エストラジオール系は偽妊娠状態を作ったあとにPGF2αを使う方法で、主に研究や胚採取の場面で使われる

「人にも効くのか」という点

参考
ペプチドやタンパク質の薬は、一般に消化管の酵素や酸で分解されやすく、口から飲んでも吸収されにくいことが知られています。
ブセレリンなど17種のペプチド薬を調べた研究でも、多くが小腸液の中で急速に分解されていました。
一方で、ステロイドは経口で効く薬が多く、altrenogestも経口投与の薬です。
なお、eCGやhCGそのものを飲ませた場合の研究は今回調べておらず、「効かない」と断言できる材料はありません。

確認済み
altrenogestの添付文書には、無傷の皮膚からも吸収され、男女ともに重い副作用が出うると書かれています。動物用の薬でも、人が触れれば影響がありうるというのは覚えておきたい点です。

4. 科学メモ②:症状を薬理で考えると

噂では、「閉経後に月経が戻った人」と「妊娠した人」は別々の話として語られています。ここでも別の人たちとして分けて、それぞれ薬理で考えられるかを見てみます。

閉経後の出血

確認済み
エストロゲンだけが外から入り、それが減ると、子宮内膜がはがれて出血する「消退出血」がほぼ確実に起きます。
エストロゲンが過剰な場合も、内膜が不規則に増えて出血することがあります。
つまり、ホルモンを飲まされて出血が起きた、という筋書きは薬理的にありえます。
ただし、閉経後の出血は子宮内膜がんなどの病気のサインのこともあるので、実際にはきちんと検査が必要です。

妊娠が相次いだという話

噂の中で、妊娠は閉経した女性のこととは書かれていません。閉経後に月経が戻った女性とは別の、閉経前の女性たちの話として読むのが自然です。

閉経前の女性の妊娠が、混入された薬の影響なのか、ごく普通の妊娠なのかは、今回の資料からは判断できません。該当する人数も年齢も、公式には示されていないからです。ここは「確かめようがない」としておくのが正確だと思います。

確認済み
念のため補足すると、閉経は卵巣の卵胞が尽きた状態で、自分の卵子での妊娠はできなくなります。閉経後の妊娠が報告されているのは、提供卵子とホルモン補充を使った場合です。

5. 科学メモ③:動物の発情(estrus)と、ヒトの性的動機づけの違い

ここは生理学の観点からの整理です。発情誘起剤の話を調べていて、「エストロゲン系の薬は、ヒトの性的な動機づけ(性的欲求)に影響するのか」という疑問が浮かびました。
結論から言うと、動物の発情とヒトの性的欲求は制御の仕組みが違い、同じようには扱えません。

豚など動物の「発情」

確認済み
発情は、多くの雌の哺乳類で、排卵の時期に合わせて短期間だけ現れる、性的な行動が高まる時期のことです。
総説によれば、ヒト以外の雌の哺乳類では、性的な動機づけと行動にエストラジオールだけが不可欠だと示されています。
そのため畜産では、ホルモン剤で発情や排卵の時期を人工的にコントロールできます。

ヒトの場合

  • 確認済み
    ヒトの女性には、こうした厳密な発情はないとされます。性的な反応性は卵巣ホルモンだけに依存せず、性行動は月経周期のどの時期にも見られます。
  • 確認済み
    ただし周期による変動はあり、妊娠しやすい時期に性的欲求が高まるという結果が、LH検査で排卵を確認した縦断研究でも示されています。
  • 確認済み
    ヒトの女性の性的欲求には、エストラジオールとテストステロンの両方が関わるとされ、どちらがより重要かは今も議論が続いています。

エストロゲン系の薬を足すとどうなるか

  • 確認済み
    閉経後の女性では、排卵期並みのエストラジオール値になるエストロゲン療法で、性的欲求が高まるという総説があります。ただしこれは、不足しているホルモンを補った場合の話です。
  • 確認済み
    エストラジオールとプロゲステロンの補充が、男性のホルモン補充のように女性でも性的欲求を回復させるとは限らない、という指摘もあります。
  • 確認済み
    テストステロンは、高用量なら性的欲求に影響しうるとされます。ただし、健康な女性で、もともとのホルモン値と性的欲求の関係ははっきりしません。
  • 参考
    まだ妊娠可能で、ホルモンが十分にある女性に、エストロゲンをさらに足した場合の直接の根拠は、私が探した範囲では見つかりませんでした。ここは分かっていない部分です。

まとめ:豚などの動物では、ホルモン剤で発情の時期を人為的に作り出せます。ヒトの性的な動機づけは、そのような単純な仕組みで制御されているわけではありません。
豚用のホルモン剤が体内に入ったからといって、ヒトに同様の反応が起きると考える根拠はなさそうです。
なお、今回の事件で性的な影響があったという確かな情報は、私が見た資料にはありませんでした。

6. 科学メモ④:デキサメタゾンとは

注意:この事件でデキサメタゾンが使われたという公式の確認はありません。
以下は、転載記事に名前が出ていたので調べた「参考知識」です。

どんな薬か

確認済み
デキサメタゾンは、合成の糖質コルチコイド(副腎皮質ステロイド)です。
効き目の目安は、0.75mgがプレドニゾン5mg、ヒドロコルチゾン20mgとほぼ同等で、ヒドロコルチゾンの約27倍になります。
作用時間は長く、鉱質コルチコイド作用(体に塩分と水をためる作用)はほとんどありません。
資料上は消化管から吸収されやすいとされています。

どんな病気に使われるか

確認済み
リウマチ性疾患、一部の皮膚疾患、重いアレルギー、喘息、COPD、クループ、脳浮腫、早産児の治療のほか、抗がん剤の副作用対策、多発性骨髄腫、高山病の予防・治療にも使われます。

副作用

確認済み
短期なら問題が少ないものの、大量・長期だと次のような副作用が出やすくなります。

  • 体重増加、満月様顔貌、体幹の肥満、首の後ろの脂肪(バッファローハンプ)
  • 高血糖、脂質異常、高血圧
  • 骨粗しょう症、骨壊死(大腿骨頭など)
  • 気分の変化などの精神症状、感染しやすくなる
  • 月経不順、多毛

飲んでいる薬を自己判断でやめると危険なので、必ず医師に相談してください。

7. 情報リテラシー:今回の反省

古い記事が使い回され、しかも盛られていく例を、ネットではよく見ます。今回の私の失敗と、調べながら気づいたことをまとめます。

  1. 日付と初出を確認する。「最近の事件」に見えて、実は数年前の話だった。
  2. 一次情報まで遡る。「公式の調査結果」と書かれた転載記事を、いったん信じかけました。公式発表の原文を確認すると、「医用注射液」としか書かれていませんでした。
  3. 数字が出典間で揃っているかを見る。開始時期や人数がバラバラなら、どれも疑ったほうがいいです。
  4. 症状が薬理で説明できるかを考える。閉経後の月経再来のように薬理で説明できる話と、妊娠のように因果関係を確かめようがない話は、分けて見ます。
  5. 驚いたときほど立ち止まる。驚きを誘う話ほど、盛られやすいと思います。

8. 出典一覧

事件について

豚の繁殖に使う薬

薬理・医学

ヒトの性欲・発情

※この記事は一般的な情報をまとめた自分用のメモで、医療上のアドバイスではありません。服用中の薬については、医師や薬剤師に相談してください。

1 comment on 乳山投毒事件を検証|デキサメタゾンとホルモン薬理まとめ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。